つらつら、つら

ぼーっとしてると言われるのでそのぼーっとを文字にしてみようと。たぶんそんな内容。

市の心理士さんとの相談会

年中になった息子。

 

昔から、大変な子だった。

でもこの大変さは1人目だから、

いろいろと私が慣れてなくて大変なんだと思っていた。

実母にあなたはこうじゃなかった、あなたの弟もこうじゃなかった、と息子を見て驚かれた。

それでも、どうしてこんなに大変なのか、どうすれば解決するのかわからなかった。

 

例えば、外へ出てイヤイヤが発動すると本当にどこでも寝っ転がって大泣きしてその場から動かなくなった。

それがずっと、続く。

さすがにその場に転がっているのは15分くらい(親が抱っこして移動させるから)だけど、それでも、一度そのイヤなことが起こると、それがずっと後を引いて、

1時間くらいはぐずぐず泣いている。

 

幼稚園の見学に行っても、全くじっとしなかった。

そういう子は他にもいたから、さほど心配しなかったけれど、

わたし自身が息子を追いかけ回すせいで先生の話を聞けないのは、ちょっと困った。

 

そして、今、年中になり、彼はサッカーを習っている。

とにかく、コーチの説明を聞けない。

「赤いカラーコーンまでドリブルして、そのあとあちらのゴールにシュートする」と

コーチが丁寧に、実際にやってみせて説明しても、自分の番が来ると、できない。

なぜなら話を聞いていないから。

幼稚園の先生からも「製作のやり方を説明して、聞いてはいるみたいなのだけれど、

実際にじゃあやってみてね、とやると、

「ねえどうやってやるんだっけ?」と聞かれる事が多い」と説明を受けた。

 

気のせいかもしれない。

周囲全員から

「そのうちよくなる」

「成長すれば変わる」

「子どもはみんなそんなもの」

と言われる。

わたしの気にし過ぎ…とずっと思っていた、悩みながらも。

 

でも、最近やっと、息子と話をして市の相談会に行くことができた。

息子に、どうしてお話を聞けないんだろうと聞いてみたら、

息子が、自分でもわからない、と答えてくれたから。

どうしたらいいのか、わからない。でも、できない、と話してくれた。

 

年中の息子は、もうひらがなとカタカナが読めて、簡単な計算ができる。

そういった良いところがたくさんある。

知的部分だけじゃなく、泣いている子がいたら必ず率先して自分のものを譲ってあげたり、泣き止むよう行動したり、そういう行動もできる。

わたしが娘を叱ると「妹ちゃんは可愛いんだからそんなに怒っちゃだめ!」と言うこともできる。

 

 

そういう良い部分が、このままだと埋もれて消えてしまうと思ったのだ。

話が聞けない、

言うことが聞けない、

おしゃべりしてはいけないときに話してしまう、

自由に行動してはいけないときに動いてしまう…

 

そういうことが重なれば、いくら素敵なところがたくさんある子でも、

注意され続けてしまう。

そうなったら、いつも否定されると感じて

「ぼくはなにもできない」と思ってしまうかもしれない。

本当は、全然違うのに。

 

市の相談会に参加した結果、療育に相談してみることになった。

知能は6歳以上だと言う。

(正確なところは息子のやる気が途切れて、途中で検査が中止になったのでわからない)

 

市の心理士さんは「理解力もあるし、指示の意味もわかっている。

でも、全ての刺激に反応してしまって、指示が右から左へ流れてしまうのだと思う」

と説明された。

 

普通の子なら、指示を出している人を見て、その人の言うことだけに集中できる。

でも、目から入る刺激、耳から聞こえる刺激、肌から触れる刺激、など、

すべての刺激にどうしても反応して、指示がよくわからなくなってしまう子がいて、

息子くんは多分、そういう傾向が強い、と。

脳が他の子と少し違うから、誰のせいでもない、仕方のないこと、と説明された。

 

コロナでこれからどうなるかわからないけれど、

とりあえず療育とコンタクトを取ることになった。

 

今度、療育の電話相談を受ける。

そのあと、実際に療育に息子と訪れるかどうか、決まる。

 

いま、正直、ほっとした気持ちだ。

 

このままでは、わたしは息子をしかり続け、注意し続け、

息子の良いところを軒並みダメにしていく未来をうっすらと感じていたから。

それがすごく怖かったから。

 

実母には「りょういく⁉ そんなの行かなくていいわよ、気にしすぎよ。息子くんみたいな子って普通にいるじゃない」と言われた。

 

そりゃあね、いるよ。いるのよ。でもそういう問題ではない。

じゃあ、お母さんはそういう子が社会人になってどうなったのか、実際に知ってるの?

全員が全員、生きにくさを感じずに、うまく溶け込んで、

楽しく社会生活を送っているって、言える?

 

わたしだって、自分の子じゃなければ

「そういう子いるよね、ちょっと落ち着きが無い子」って笑顔で終わった。

でも、自分の子だから、そうはならない。

 

将来、生きにくさを感じて職を転々とするようになるかもしれない。

何をやってもうまくできないと劣等感に苛まされてしまうかもしれない。

生きる気力がなくなって人生に絶望するかもしれない。

 

そんなふうに、息子に感じてほしくない。

得意なこと、好きなこと、

輝ける場所、認めてもらえる場所、

信頼できる人、信頼してくれる人、

そういったものに、たくさん出会って、

辛いこともあるかもしれないけど、楽しいことはたくさんあるって知ってほしい。

 

小学生まであと2年。

あと2年じゃ、時間は足りないのかもしれない。

でも、まだ2年ある。

わたしが足踏みしていたせいで、遅くなってしまったけれど、

一方踏み出せて、よかった。

 

これから、本当に療育に通うことになるのか、まだわからないけれど。

この一歩が良い方向に向かうと信じたい。

 

息子には怒ってばかりだし、注意してばかりだけど、すごく愛おしい息子なのだ。

髪の毛はまだ柔らかくてふわふわで、日に焼けたほっぺももっちりしていて。

ふとした瞬間にそんな息子をなでて、抱きしめる。

照れくさそうに「なあーにいー?」って返事をしてくれる息子を、本当に愛している。

 

これから、彼の笑顔がもっともっと増えますように。

 

 

 

 

真昼の公園で日差しに焦がされながら、金と教養を推し量る。

数少ないけれど、一応ママ友がいる。

わたしの年齢に近い人もいれば、年齢が割と上(だと思う。。年齢聞いたりなんてしてないけどさ……)の人もいる。

 

でも、年齢が近いのに、この人とはママ友になれなそうだなあ、ちょっと話してるだけなのに疲れるなあ、という人もいれば、

子どもの年齢もがっちり合ってるわけでもないのに、すごく仲良くなれそう!!

ラインとか連絡先聞きたい!!  

でも聞けない!!ふぬけだから聞けない!!!!  

どうかまた公園で出会えますように!!!!!

みたいな人もいる。

 

考えてみたのだけれど、私はたぶん、以下項目をまず相手のママさんと話して注目しているのだ。

1、その人の服やカバン、子ども用品のブランド(子どもの身に着けているものも)

2、子どもへの接し方

3、話し方、言葉の選び方

 

これら、話していて受け取ることができる情報から、最大限想像と妄想をした結果、この人とは住む世界が違う(世帯年収や考え方など)と判断した結果、

この人とは合わない、とわたしは一人判決を下すみたいだ。

 

もちろん、子ども同士が仲良くなったら、それはもう、子ども優先なわけだから、仲良くすると思うけれど。(表面上。心は開かない=余計なことは話さない)

 

上の条件から、このママとはすすんで仲良くなりたい、また会いたい、できれば公園以外でも会いたい、お茶したい、公園で遊ばせて子どものご飯食べさせて、ベビーカーですやっとしてもらって、ママさんとスタバでフラペチーノ飲みたいとか思うのだ。

 

具体的には、まず、あまりにハイブランドばかり身に着けているお母さんは、苦手。

(ベビーカーはマクラーレンのぴかぴかのものだったり)

 

あと、洋服も。VERYに出てくるモデルさんのようなおしゃれなお母さんも苦手。(日差しが強くなってきたから、仕方ないのかもしれないけれど、はじめましてなのにずっとサングラスで対応とかいう人も苦手。サングラスされたら表情読めたもんじゃない。相手の出方とか距離とか、表情みて対応したいのに、それができないから困る。)

 

だからといって、お化粧一切せず洋服も清潔感がない(あまりにヨレヨレとか、ジャージとか)自分への手入れが皆無、の人も、ちょっと苦手。

 

子どもへの接し方っていうのも、まあ、言葉の選び方とかでもあるんだけど。

 

あまりに自分の子どもへ乱暴な言葉遣いをしてる人も、合わないなあ、と思う。

お前とか、おいとか、ばかじゃねえの、とか。

 

あと面倒くさそうに子どもの返事に生半可でスマホいじってる人とか。

外で公園で遊んでるときくらい、周りの目もあるから、しっかりそういう点も気を付ければよいのにと思うのであります。

 

このママさんは自分と同じ金銭感覚か、セレブママではないか、逆にヤンキーすぎる感じではないか、ある程度学力に重きを置いているか(私バカだからこの子もばかなのは仕方ない、高卒でいっかー☆ みたいな人はちょっと理解できない。)などを、こっそりひっそり、公園という場でお互い笑顔で他愛もない話もしながら、推理し合う、そういうことを、ほとんどのママさんたちは公園で繰り広げているのだ。

意識下で、顔には出さず。

 

砂場やブランコ、滑り台で、ママたちはそんな思考でいっぱいだ。

金や考え方や教養を、お互いに推し量っている。笑顔と子どもの笑い声の奥底で。

 

だからママ友は面倒くさい。

でも子育ては孤独なのだ。

自分は今子育てが主な仕事だ。一日の中で子育てばかりしている。

子育てについて話せる人がほしい。

だからママ友はいたほうがいい。

よって、やはり今日も公園へいく。

 

自分と似た感覚のママ友と出会えればいいなと思いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

『蜜蜂と遠雷』を読んで

こんにちは、おゆです。

感想が書ける今のうちに、忘れないうちに、書いておきたい本を一冊。

 

これも、ツイッターで、同じ大学で同じ学部だった友人が強くオススメしていた本だ。直木賞を取る前だったかな?

(どんだけツイッターしているんだよっていう。でも子育てしながら何かじっくり読む時間はあまりなくて、そうするとこまごまとした時間で、ふとしたときにスマホでみることができるのがツイッターだったりする。)

直木賞、どの作品が受賞するんだろう、とざわざわしているとき、その友人Sちゃんは絶対に、絶対に、『蜜蜂と遠雷』が取ると断言した。

さらには、これから『蜜蜂と遠雷』をまっさらな状態から読むことができる人がうらやましい、圧倒的読後感を味わえるなんて、本当にずるい、とも。

 

それほど言うとは、いったいどんな内容だ、と思いつつ、給料日、お財布が豊かになった日に、銀行回りをしたあと。

 

財布の紐が緩むのも仕方ない。

ベビーカーを押しながら書店に入り、うずたかく陳列されている一冊を、手に取って購入した。

 

何日間かかけて読んだ。

しばらく、寝かしつけのあと、わたしの頭の中は毎晩クラシックの曲が響き続けた。

 

確かに、圧倒的読後感だった。

読み終えてから、今の今まで、我が家のBGMは作業用クラシックBGMだ。

ずっとクラシックが流れている。(※Eテレを付ける時間以外。)

 

どこかで少しでもクラシックをかじったことがある人、クラシックが好きだと自負している人、届かぬ才能の存在を目の当たりにしたことがある人は、きっと楽しんで、ときには胸に迫るものを感じながら、読み終えることができると思う。

 

 

もともとクラシックは好きだった。三歳から十五歳くらいまで、ピアノをずっと習っていた。しかし、プロに行くような道を目指しているわけでもないし、(途中までは親が本気モードだったから、音楽教室などに通っていたこともあったけれど。)完全に趣味として、どこまでいけるか弾き続けている感じだったので、本の中にでてくる多彩な登場人物たちよりも、はるかに下手だ。

比べてはならないほど下手だ。

 

けれど、ピアノに親しんでいたから、クラシックは好きだ。

今でも、ふとしたときに生演奏を聴きに行きたいと思う。

 

圧倒的読後感に頭をしびらせ、ぼんやりしながら感じたことは、ただ一つ。

わたしも、何か一つでいいから、自分の思い通りに楽器を鳴らせるようになりたかった、ということ。

 

登場人物たちのように、何かへの圧倒的な才能が、ほしかった、とは思わなかった。

それほど、彼らの才能は圧倒的で、飛び抜けているから。

 

自分は鳥ではないから、空を飛ぶことはできない、ということはわかっている、そんな感覚に似ている。

 

無理なものは、無理なのだ。

彼らにあって、自分にはない、足りないものを得ることはこの場合、不可能だ。

 

わたしには才能がないから、彼らのように自由自在に音楽と遊ぶことはできないし、そんなこと望みもしない。ただ、もうちょっとだけ、楽器を自由に鳴らすことができるようになりたかったなあ、という、小さな小市民的な願望がちらついた。

 

ちらついた願望は、熱望に変わっていく。

 

ピアノじゃなくてもいい。

ファゴットでもフルートでも、トランペットでもいい。

シンバルやカスタネットなどでもいい。

 

自分と世界中のどの国の人々とも、もしくはすべての生き物と、言葉を必要とせずに繋がることができるツール、それが音であり音楽であり、クラシックだ。

 

わたしも、言葉や文字を必要とせずに、誰かと交流できるようになりたかった。

 

久しぶりに実家にあるアップライトに茶色いピアノを弾きたくなった。

といっても、もう指はすべりまくり、転びまくりで、まともに弾けたものじゃないだろうけど。

一番最後のほうに発表会の曲で弾いた(要はものすごく練習して弾きこんだ)メンデルスゾーン舟歌、くらいだろう、唯一自分が音楽に良いながら弾くことができるのは。

 

それでもよいから、ピアノを弾きたくなった。

 

 

 

彼らがどんな人ともコミュニケーションをとることができる音楽というツールを、自分の指から鳴る音を、聞きたくなった。

 

わたしの音はどんな音だったのか、何を含んだ音なのか、聞きたくなった。

 

音楽は、楽器は、ピアノは、言葉なしに、時間も飛び越えて、人とつながることができるツールであり、自分だけの友だちであり、相棒であり、大っ嫌いな憧れの人に似ていて、幼いころに持っていたぬいぐるみのような懐かしい匂いがするものだ。

 

いつだって受け入れてくれて、突き放してくる。

 

世界は音でできていて、過去現在未来のX軸から地球上全ての音のY軸まで、果てしなく繋がり広がっている。

 

その広がりの中、自分の立ち位置を確認して、どこか遠くへ飛んでいきたい人。

どこにも行けない自分を知っている人。

独りを感じて、時空を超えることができる新しい友だちがほしい人。

 

クラシックという選択もありです。

 

まずは読んでみてください。

 

 

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

 

 

 

 

告白

雨が降っていますね。

おゆです。

 

昨日から雨で、いい加減、息子さんが公園に行きたくてぐずっています。しかし雨だからいけないのよ……近くにある地区センターまでいくのも、雨だと私一人では子供二人連れては厳しい(無免許だから。今、免許取得に向けて実は頑張っています。)から、我慢してもらうしかない。

 

どうしようもなくなったら、しまじろうのDVDに頼ります。しまじろう神。

 

ところで。

実は、わたしは劣等感のかたまりです。

たぶんほとんどの人は劣等感のかたまりだと思うのですが、そういう人からもれでることなく、わたしも劣等感のかたまりです。

面倒くさいのが、劣等感のかたまりのくせに、プライドが低くはないところです。

 

どうでもいい点はどうでもいいんです。自分が知らない分野や興味がない分野、苦手だとわかりきっている分野のなかで、すごいなあと思う人がいれば、純粋に尊敬できるし、そのすごさを面白がることができる。

 

でも、劣等感だらけの自分をどうにかしたくて、努力した、手を伸ばした分野については、嫉妬します。嫉妬したり、情けなくなったり、悔しくなったり。忙しいです。

 

まあ、そういう人とも、ちょっと話せば、同じことが好きな人同士なわけだし、楽しく語ることができたりするのが大半なのですが。

 

今一番輝いて見える人は、わたしができていないことが、できている人です。

 

隣の芝生は青いのです。青々として、生命力にあふれて、まぶしくなって、直視できなくなるくらい、綺麗な生き生きとした青に見えるのです。

 

中高、好きなことでちょっとした賞をもらいました。好きなことをもっと極めるために、必死で目標のために勉強して、第一志望だった大学の文学部に合格しました。

大学の授業はとても面白かった。

しかし就職は甘くなくて、内定をいただいたところ、なんとか自分を納得させる形で入社したところで働き始めました。

しかし、すったもんだあって、あっという間に退社、結婚、妊娠、出産、育児。

 

主人がいて、子どもたちがいて、家族がいて、専業主婦をさせてもらっていて、何不自由なく暮らすことができています。

 

子どもたちの母親になれて幸せだし、彼が結婚してくれて自分の主人になってくれて幸福だし、子どもも、今はもういないことなんて想像できません、とにかく、可愛い。

 

結婚して専業主婦になりたい女性が多々いることも知っています。

わたしが今手にいれているものが、のどから手がでるほどほしい人も、存在しているのだと思います。

 

でも、それとこれとは別なのです。

自分のなりたかった肩書、名乗りたかった職業、身につけたかったスキルを次々と自分の力で手に入れて、社会で活躍している女性(特に友人)を見ていると、自分が情けなくなって、途方にくれます。

 

わたしは何をしているんだろう、と、家の中で子どもたちと過ごしながら、ふと、何も見ていないときがあります。

 

自分がみっともない、とまではいかなけれど、顔向けはとてもじゃないけれどできなくて、くるりと反対を向いて全力で逃げ出したくなります。

しかし逃げ出す勇気もわたしにはないのです。

だから、目線だけそらして、ぐっと自分の足元を見て、いつか、わたしも。

いつかいつかいつか。そのうち、わたしも。

と思うだけ思っています。

 

自分に甘ったれですね。

じゃあ今からでもどうにかすればいいのに。

 

将来子どもが大きくなったとき、

「あのときお母さんがそばにいなくて、実はさみしかった」

とだけは言われたくない。

それは取り返しがつかないと考えています。子どもが大人になってしまったら、子どものころに戻って甘やかすことも、そばにいてあげることも、なにもできないから。

上記は言い訳です。

本心でもあります。

 

 

自分の行動で完了する人生は、子どもが巣立ってからでも続いている。

だから、もう少し、子どもたちが大きくなってからでもたぶん遅くない。たぶん。

 

わたしは超人ではなくて全てはできなから、優先事項をかかげて、優先しなければならない度合が高いものだけは、きっちりクリアして生きていきたいです。

 

ひとまずは、わたしを選んで奥さんにしてくれた主人、わたしをお母さんにしてくれた子どもたちが、自慢できるような人間になれるよう、自分ができることをしていきます。

 

おしまい。

 

 

 

だいしゅき、と、ぎゅ~

1歳半ばくらいから、ちょまに身に着けさせたことがあります。

身に着けさせたというよりは、わたしがちょまにしていて、覚えてしまったといった感じですが……。

 

それは、だいしゅき~と、ぎゅ~という言葉と動作。

それぞれ、言葉にしながら一生懸命ぎゅうっと抱きしめてくれます。

 

これが便利。

 

下の子でどうしても手がいっぱいいっぱいになって、ちょまの相手をできなかったり、思わずちょまのことを怒ってしまったりしたとき。

寝る前や、朝起きたとき。

 

ふとしたタイミングで、ぎゅ~とだいしゅき~を発動します。

 

大好きなんだよ、大事なんだよということが、たくさん伝わって、ちょまもわたしもほっこりします。二人ともしあわせ。

愛情が伝わるのがわかります。

 

逆に、ちょまからぎゅ~、とだいしゅき~をお願いされることも。

甘えたいんだなあということもわかります。

 

愛情がほしいということがわかってとっても便利だし、なにより可愛い。癒されます。

 

こういうことを教えてしまったから、ちょまは平気で、ぎゅ~とだいしゅき~を外でもやります。

相手がおばあちゃんや、姉の子どもたち(5歳と2歳)の子たちにやるのであればまだいいのですが、公園でちょっと知り合ったような子にも男女関係なくやってしまうから、少し焦ります(;・∀・)

当然、おともだちはびっくりして固まってしまう子もいれば、急に抱きしめられて嫌がる子もいます。小さいながらも、自分と他人との物理的距離をしっかり把握している子がほとんどで、そのパーソナルな部分に急に侵入されると不快に思ったり、びっくりしたりするのは、当たり前です。

 

お外ではやらないようにしてほしいのですが、誰かと遊んでいて、楽しくなってくると、遊んでくれている相手の子が大好きになって、思わずやってしまうようです。

 

もう少し、大きくなったらやらないようになるかな……もしくは説明してきちんと理解できるようになってくれるといいな……。

 

『いつか別れる、でもそれは今日ではない』を読んで

最近話題の(話題となってる人の中でしか話題になっていないのかもしれないけれど)

Fさんの本、『いつか別れる、でもそれは今日ではない』を読んだ。

読み終わった。

 

ずっと読みたかった。

しかし、ツイッターで回ってくる情報では、どこどこの書店は売り切れ、だ、再入荷した、だ、アマゾン予約が一番早い、だ(わたしは本はできれば書店で手に取って買いたい。なにごとも、ネットで買うより実際に足を運んで目で見て触れて買ったほうが、満足度が高い古典的な人間だから。平成生まれのはずなのだけれど)という、購入意欲を急かし、なおかつ、手に入らないんではなかろうかという不安をあおるものばかりで、まさかたまたま立ち寄った本屋で手に入るとは、思っていなかった。

 

見かけた瞬間すぐに、一番きれいなものを選んで、レジへ直行した。

 

絶対に夜読もうと決めていた。子らが寝た後、主人が帰ってくる前、ひとりの夜に、浸りきって読むのだと。

 

でも、我慢できず、夕方よりもすこし昼よりの時間帯、夕飯の支度でお肉を解凍しているとき、子らがまだ昼寝をしているときに、フライングで読み始めた。

 

それからずっと、じわじわしている。読み終わた今も、じわっときている。

脳がフル回転で動いている。

だからこうして、余韻に浸りきっているうちに、感想を記しておかなければと、パソコンの前に座っている。

 

 

※※今後読む予定の方でまっさらな状態で読み始めたい人は、以下は読むことをおすすめしません。※※

 

 

 

Fさんはツイッターでフォロワー数が13万(これは本の帯で知った…そんないるんですねすごい…)の人だ。

いっとき流行った、携帯小説のような軽い言葉でひたすら重い内容を書くような、涙をやたら誘うような内容を文で表すような、そういう万人受けすることをツイートする、

 

人ではない。

 

独りで一人で1人を抱えている人に、語り掛けてくることを呟いている人。

 

ああ、うまくいえない。言葉で表すととたんにちゃらついた、軽々しいものになる。

気になる人はFで探してフォローするのをおすすめする。

 

本を出す以前から、ツイートした文章がものすごい数のリツイートになる人で、で、まあだからこそ出版の話になったんだろうな。

 

140文字じゃ語り切れないものが、ずっしりと本にはつまっていて、大体たぶん、3時間くらいで読み終わったけれど、これは読み終えて、アー面白かった、と、本棚にしまう本ではない。

手元に置いておいて、ふとしたとき(ひとりのとき)にページをめくる本だ。

 

物語ではない。ジャンルでいうと、おそらく、エッセーであり、随筆。

 

Fさんの告白本のような、Fさんの考えていることを露呈させているような、本だ。

 

羞恥プレイ。

しかし、これは作者だけでなく、読んでいる読者も羞恥プレイに陥る。

 

書かれていることが、大声で誰かに話すことができるような内容ではないから。

大人の中二病のような、でもそれが真理であるような。

 

結局、大人になって生きている世界は、思春期に感じた世界とほぼほぼ同じで、ただ大人のフリをしていろいろなことを隠すことがうまくなっただけだで、見えないふりもできるようになっただけで、しかしそれを、ものの見事に大人でも、読んでいて堪える文章にして表してくる。

 

それがこの本だ。

 

多くの小説が、物語の軸となる人間関係、小説の長い時間軸を使って、なんとか比喩と物語の流れと主人公たちの会話とで、人の絶対的な孤独、恋、愛、絶望、嫉妬、反抗、裏切り、恥、醜さ、などを、読者に伝えようとする。

 

しかし、この本は、それらをストーリーやキャラクターの中に隠すことなく、文章で見せつけてくるのである。

 

人は愛せずにはいられないこと。

恋い焦がれること。

愛って大事だよね、恋って大事だよね、それでも人は孤独だよね。

 

文章にすれば簡単なのだけれど、そんな簡単な言葉で、愛や恋や孤独を語ることなんてできないことを、生きているわたしたちは知っている。

だからこんなに、生きていることは、生々しくて、涙の味がするときもあって、自分は究極的にはひとりだと、考えずにはいられない夜があるのだ。

 

読み始めて、最初のうちは、恋だの愛だののキーワードが出てくるたびに、主人があてはまるだろうか、無意識に考えながら読んでいた。

友だちの話がでれば、自分の親友を考えていた。

学校の話がでれば、自分の学生生活やその頃の友人、先生を思い返していた。

 

読み終わる頃には、誰もいなくなっていた。

私は私としか、対峙していなかった。

 

幸せも孤独も、愛しているかも、愛されているかも、究極はどうやってわかるなのかというと、自分がそう自分自身に決定づけるしかないのだ。

 

そう思い知らされた。

 

そして、だからこそ、もっと自分を知る=もっと自分を愛してみよう、自分の声に耳を傾けよう、という気持ちになる。

 

何年もかけて、Fさんの生きている時間、読んできた本、見てきた映画、聞いてきた音楽、それらすべてを吸収してできた、ある種の人生のとらえ方の一つを、わたしはたった数時間で手に入れてしまった。

いや、全容はまだ一読じゃ手には入っていない、けれど、片鱗は手に入ったし、ある種の考え方の答えの例も知ることができた。

 

読むという行為、それだけで。

 

少しなんとなく申し訳ない。

 

でもこれだから、読書はやめられない。

 

思春期に突入して、女子校のクラスにうまく溶け込まず、親にも恥ずかしくて耐えていたころがあった。

結局、母にばれて、わたしは泣きながら母に孤独を訴えた。

すると母はすごく優しい顔で、こういった。

「でも人間って、最後には、ひとりなのよ」

 

ずっとそれ以来頭に、母の言葉がふとしたことでよみがえる。

 

ひとりを感じたことのある、孤独を見たことのある、全ての人にお勧めします。

 

 

いつか別れる。でもそれは今日ではない

いつか別れる。でもそれは今日ではない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人の話を聞きながら、可能な限り自分の話を語り始めないようにしたい。

自分も思わずやりがちなときがある、と最近気が付いたのだけれど。

自分が、自分は、わたしは、と、人の話を聞いている時に、主語を自分にして、気が付けば自分語りをしているときがある。

 

あなたはどうだった? 

あなたの時は、どのように感じた?

あなたならどう思う?

 

と、自分の意見を求められたのならば、いいのだ。

それならば、自分のことを聞かれたのだから、質問に答える形で、「わたしは……」と話し始めてよいと思う。

しかし、そうではないときに、主語を自分にして、語り始めるのは、結構、話を聞く側は不快な気持ちになるものだ。

 

要は、

 

「誰もあなたのことを聞いたわけではないんだけど」というやつである。

 

これを思ったのは、息子の幼稚園をどういう幼稚園(運動系がいいのか、お勉強系がいいのか、少人数に特化しているところにすべきか……などなど)にしようか悩んでいて、話の流れで主人に何気なく相談したときのこと。

 

主人は「僕はこういう幼稚園がいいと思う」と話し始めていたのだが、気が付けば、「僕が通った幼稚園は……」「僕の行ったところはこういうところで……」と、主人が通った幼稚園を語り始めていた。

 

ここで思ったのは、やっぱり、相談しといてあれだが、

 

<誰があなたの通った幼稚園について、詳細を話せと言ったんだ>

 

 

というやつである。(質問しといてそれはないだろ、という意見もあるかと思います。)

 

相談内容は息子にあう幼稚園はどういった幼稚園か、地理的にもどのあたりの幼稚園にすべきか、などということで、誰も、主人が通った幼稚園(そもそも市が違う)の話を聞いたわけでない。

 

だいたい、息子は主人ではない。

主人が楽しかった幼稚園の要素が息子にも楽しい要素としてあてはまるかといえば、そうでもないと思う。

 

途中からもう、主人の語る幼稚園の話は右から左で空へ飛んでって二度と頭の中に残っていないようなルートを通っていた。

その代り、頭の中にあったのは、幼稚園の話ですらなく、

 

人は自分のことを語りたくなりがち、ということである。

 

まあ、当たり前だ。だって、自分は自分で経験したことしか実際に経験したことがないんだから。

語ることができるものというのは、自分の経験、自分自身のことだ。

そして、往々にして、人は、他社から注目を得たいのがサガだから、どうしたって、

俺は! わたしは! と自分のことを語りがちになってしまう。

 

でも語られたほうから言うと、実は、

誰もあなたのことは聴いていないし、と思ってしまうし、

そもそも、あなたのことにそんなに興味があるわけではないし……。

となる。

 

忘れちゃいけないのは、

 

自分は自分が思っているよりも、人から興味を持たれているわけではない、ということなのだ。

いくら自分が一生懸命自分の人生を懸命に生きてきた、あのとき限りなく努力した、昔死ぬほど頑張った、という経験があって、それが自分の中で大切な誇りとなっていたとしても、その輝かしい誇りは自分からみたら光輝いて見えるだけで、他人から見たら(しかもその人が、自身に興味がない人だったら)、散り積もっている埃にしか見えないときだってあるのだ。

 

(まあちょっと誇張しすぎだし、わたしの場合は相手が主人だったから埃とまでは見えなかったけれど)

 

(でも相手が職場のどうでもよい上司とか、嫌いなお局様とかだったら、埃にしか見えないかもしれないよね。でもこれは聴くことを拒否することはできないから、やっぱり、語られている間中、右から左へ流してお空へぽ~い、頭の中は好きな曲のBGMでいっぱいとかになるかもしれない。)

 

自分の誇り、一生懸命生きてきた軌跡は、相手にとっては埃に見える。

ときもある。

 

忘れないようにしないとな、と思った。

 

そして何より、相手の話をたくさん聞いて、相手を気持ちよく語らせることができる、相手の話から自分も周りも実のある内容を引き出せるようになりたいな、と思うのである。

 

何より、子どもたちに何か聞かれたときに、自分の経験をスタンダードの成功例として語らないように気を付けたい。

 

わたしが生きてきた時代と今は違うし、なにより、子どもはわたしではない。

わたしが成功としたことは、子どもたちにとっては成功ではないかもしれないし、苦しむ選択になるかもしれない。

 

子どもたちが何を自分の成功とするか、正解とするか、それを得るための手助けができるように、一緒に悩んで、一緒に考えて、寄り添って、最終的には自分自身で何かをつかむことができるような、サポートがしたい。

 

 

……実際、難しいんだろうなあと思うし、わたしにできるのかよ、と思うけども。

 

でも理想をもって文字にしておくのは、何もしないでぼんやり子どもと付き添うより、断然良いと思ったので、書きました。まる。

 

おしまい。

 

 

「ぴぽ」という名前の……

最近、息子がおむつ替えや、お風呂の時に、必ず自分の大事なところを触りながら、

「ぴぽね、ぴぽね~」と言います。

 

はて? ぴぽ?

 

とわたしの頭の中は疑問符だらけ。

 

主人にちょまをお風呂に入れてもらったあと、

私「ちょま、ぴぽって言ってなかった?」

と聞くと、

主人「言ってた……ぴぽねって指さしてた」とのことで。

 

どうやら、偶然とかたまたま、ではなく、意志をもって「ぴぽ」と彼の大事なところを呼んでいるようです。

 

しかし、なぜ、「ぴぽ」……?

 

おむつ替えの時、おちんちんを触ろうとするので、ばい菌はいるから、おちんちん触らないよ~という声かけは何度もしたことがあります。

だから、おちんちん、というようになるのであれば、わかる。

でも、「ぴぽ」って。どこから。

 

そうやって名付けたの? 名前付けたの? 

大事なところって幼いながらに理解しているから??

2歳児って名づけとかできるの? しかもそこに名前って付けるもんなの?

男の子だからもう下ネタ気?

いや、ぴぽって下ネタか??ちがうだろ。

 

 

ずっと疑問だらけだったのですが、先日、この謎が解けました。

 

ある日、ちょまは「ぴっぽ、ぴっぽ!」としまじろうのパペットのしっぽをつかみながら、連呼!

 

ああああ!

しっぽ!

しっぽがぴっぽ、で、だから、おちんちんを「ぴぽ」って言ってたのか!!

 

すっきり。ほおお。なるほどね。

 

……でもしっぽではないですよ、ちょまさん……。

あなたについているそれは、しっぽではないんですよ……。

 

ぷらぷらぶら下がってて、ちょっと長さがあるものはみんなしっぽになるようです。

 

年子ワンオペ育児中

お久しぶりですの人も、初めましての人も、誰だこいつ誰にあいさつしてるつもりなの、の人も。

こんにちは。

 

前回投稿したのっていつなんだろう、と見返したら、切迫早産と診断された時期でした。

 

今もう、お腹の中にいた子は6か月になりました。早いわな……。
上の子、ちょまは2歳です。一段とおしゃべりが上手になってきました。

 

お腹にいた子は、産まれる直前まで性別を見せず。
生まれるときも帝王切開だったのでおしりからにょきにょきと生まれてきて、ギリギリまで見せず。

ようやっと出てきて、息をして、泣き声をあげて、そこで女の子とわかりました。

というわけで。今、我が家には6か月の女の子のふっちゃんと、2歳の男の子のちょまがいます。

我が家の自己紹介

わたし……名前ちゃんとつけます。おゆです。温泉が好きです。本が好き、ワンオペ年子育児中の20代半ばぎりぎり。
主人……細い眼鏡の人。

ちょま……毛が茶色い2歳男の子。甘えん坊で泣き虫。興味があるもの→乗り物、数字、言葉、文字、公園遊び

ふっちゃん……毛が黒くてくしゃくしゃの6か月女の子。太ももがふとましい。よく吐く&よく漏れる。よく笑ってくれる。

 

やっと余裕…といえるほど余裕ではないのだけれど、少しだけ子どもたち以外のことに目を向けることができ始めたので、再び開始します。

目下の悩みはちょまの幼稚園(プレ)をどうするかどうか、です。
個人的には、ある程度お勉強系に入れたい……がしかし、小さいころはやっぱりひたすら泥んこ遊びだけしていればいいのかもしれない、という気持ちもあります……。


息子の性格で選ぶのがベストでは? とも思うのですが、まだ2歳だから、はっきりとわからない部分が多々あり……(絵本も好きだし、言葉や数字にも興味が強い、けど、外遊び大好き、公園大好き、友だちともどんどん自分から関わって遊びに行くし……)


公園でママさんに会うとひたすら情報収集している日々です。

次から日常で出会った、子どもとの関わりで思ったことなどを書いていくかと。

あとはたまに愚痴。(たまに、になるように抑える)それから読んだ本の感想(ここ最近では蜜蜂と遠雷が……ああ、読んだ人と熱く語りたい……)


毎日頑張っていきていきます。
目下の目標は、子どもに、あの時実はこうしてほしかったの、そばにいてほしかったの、などと将来言われないこと。

幸せな子ども時代になるよう、できる限りのことをしたい。

わたしのやりたいことは子どもたちが巣立った後でもおそらく、できるから。

最近の話題に、暇つぶしで子どもを作った、があるけれど(そしてわたしはその記事を隅から隅まで、関連あるものまで、しっかりすべてに目を通したわけではない。だから本当は話題に触れることすらしないほうがいいのかもしれない)、わたしはそうではないな、暇つぶしで子どもを作ったわけではない、と思った。

 

下田美咲?のような、タイトルにインパクトをもたせたりして人を集める方法かもしれないけれど、もっと他に言葉の選び方、言いようがあったのではないかなと思う。

 

わたしだけだと思うけれど、わたしは、暇つぶしに子育ての文字の羅列に不快感をもった。

 

わたしは自分と大好きな人である主人との間に生まれる、唯一の存在、一人の人に、会いたかったから、子どもをつくったんだと、思う。

 

子どもを育ててみたかった、とは口が裂けても言えない。育てているということになっているけれど、実際一生懸命育てているけれど、育てているなんてたいそうなことも言えない。

 

子どもたちに親として育ててもらっている、かけがえのない経験をさせてもらっている感覚が強い。

 

こういうように、子どもと一緒になって成長していたり、一緒になって同じものを同じ目線で見ていたりするから、親として、一線を画した状態で常に子育てはできていない。

うまく子どものことをコントロールできないし、わたし自身のことさえもコントロールできないときがある。

 

いろいろと未熟すぎるわたしが行っている育児では、子どものもともとは優秀でも、そこまで伸びないのかもしれない。暇つぶしに子育て、と言えるくらい、すべて上からうまい具合に子どもを動かしてあげたほうが、将来優秀な人間になるんだろう。

 

けどまあ。わたしは絶対それができないな、と思うから仕方ない。

 

将来、子どもが自分が子どもだったころを思い返したときに、幸せな子ども時代だったなあ、自分の子どもにも楽しいこと、幸せなことをたくさん経験してもらいたいなあ、と心から思ってもられば、それでいいや、と思う。ことにする。

 

 

おうちに一時帰宅。今後の方向。

検診終わって、今後の方向を実家義実家主人の意見を合わせつつ、決定。

 

多分このまま、極端に悪くならなければ、37週に入るまで自宅安静。

 

上の子の一時預かり保育も確保できた。

 

平日は、実家。

上の子は保育園。

土曜の検診の時に、主人が迎えに来てくれて、検診に行って、そのまま土日は家で過ごす。

 

土日の上の子ご飯は、義父が運転する車に乗って義母が届けてくれる。

 

土日、わたしと主人は、そのおかずをちょっとつまんだり、主人が何か作ってくれたり。

 

で、月曜の朝、みんなで車に乗って、保育園へ上の子を送り届けたあと、わたしは実家で降ろしてもらう。。

 

このセットが、あと、5回続く。

5回目の検診で、もう正期産

産める。

 

だからおうちに戻れる。

 

あと5回もあるのか……。

 

切迫早産で寝てろと言われる日々。

 

パソコンでもいじりたいけどパソコンも体を起こして使うから、ダメかなあ。。

 

長い長い本を読もうか。

家にある本で1番長い、面白い物語。

 

昔読んだけれど、大方忘れてしまっているもの。

 

はてしないものがたり

とか

 

無事読み終わる頃には、きちんとお腹の子も生まれてくれそうな気が、する。

 

ストレスたまるから、お香やアロマキャンドル、アロマをしたいな。

 

まずは和室をもっと居心地の良いように整えよう……。

 

最後だと思う、マタニティ生活、自由がなくなりきついけれど、できるだけ居心地よく楽しく過ごしたい。

 

 

 

 

 

 

 

実家5日目。夢を見た。

和室で寝ているのだけれど。

 

最近夜何度も目がさめる。

 

でもそれは、妊娠後期9ヶ月にもなると、当たり前だと思うし、上の子の時もそうだった。

 

昼夜問わず眠れるし、はっと起きるし、と言う感じ。

 

産後の3時間おき授乳に体が準備し始めんだなって思う。

 

その日もぱちって目が覚めた。

 

まだ暗い。薄暗いとかじゃなくて、暗い。から、きっとまだ夜更け。

 

横にあるiPhoneを見ようとした。

何時かなって。

ライン、主人から来てたかなって。

でも体が動かなかった。

 

目を開けたすぐ目の前には、和室の天井が広がっているんだけれども、天井にこれでもかというほど、蝶がいた。

 

青、青紫、紫、群青、黒紫……。

 

ふわっさふわっさと天井にとまりながら、優雅にはねを動かしている。

 

鱗粉が、降りそそいでいる。

そんな幻が見えるくらい。

 

直径10センチ以上あるいくつもの夜色の蝶がバサバサバサバサ。

 

飛び回ってるわけじゃないけど、天井で体を休めてはねを見せびらかすように、閉じて、開いて、閉じて、開いて。

 

声をあげそうになって、鱗粉が降ってきていそうで、とっさに横になったまま右手をあげた。

 

また声をあげそうになった。

 

わたしの右腕が、藤色に染まって。

ぼこぼこと、ぐしゃぐしゃ、と、

変色していた。

 

右腕を凝視して、何か諦めた気持ちになる。

 

蝶の毒にあたったのかもしれないと思った。

 

目をつむった。

 

上げていた右腕を、下げる。

 

 

次に目を開けたら、朝だった。

 

当然右腕は、なめらかな白い肌で、横ではむすこが目を開けていた。

 

そんな朝だった。

 

 

実家3日目、予想してたけどやはり母とぶつかる

ぶつかりたくないんだけど、ぶつかる。

実母だからこそ言っちゃう。

でもやめてほしいものは、やめてほしいんだもの。。

 

たとえば。

 

一歳息子のごはん。

レンジでチンするのはいいんだけど何度言ってもアツアツでだす。

アツアツだから食べられない。

前もってチンして冷ましておけばいいよ、と伝えても直前になるまでやってくれない。

あったかいほうが美味しいという。

でもまだ、手づかみの息子はとにかくご飯を見たら喜んで掴んで口につっこむ。

熱いとか熱くないとか冷ますとかそういうのができない。

目の前で冷めるまでお預けにしてるとどんどん泣き叫んで機嫌が悪くなって食べるどころじゃなくなる。

 

たとえば。

 

手づかみ食べ。

フォークをもたせてるけど、使えない息子。

手づかみで食べる。

手づかみでなんて食べさせていいの?汚いじゃん。としつこい。

 

たとえば。

ベビーチェア。

立ち上がってしまうからベルトをちゃんとしてほしいんだけど、ベルトをすると息子が嫌がる。

で、ベルト外そうとする。

嫌がってるからって。

いやいや、でも、ベビーチェアの上で立ち上がっちゃうんだよ?それ知ってるでしょ。もし落ちたらどうするの。

落ちないように掴むから平気…いや平気じゃないよ、腕ぐっとつかんだらまだ骨が柔らかいから脱臼だってあるんだよ。。

 

 

たとえば。

抱っこ魔の息子。

抱っこしてくれるのはありがたいんだけど、料理中も抱っこする…大丈夫だよと言われても、やめてほしい。

油がはねたりするじゃない。。

 

 

万事こんな感じ。

 

でもお世話になってるのはわかってる。

お世話を切迫早産の私含めてしてくれて、本当にありがたいと思ってる。

だからこそ、お互い嫌な気持ちになるし、できるだけ何も言いたくないのに……。

 

実母でこうなんだから、義母と同居なんて言う人は、ほんとに言いたくても言えない生活で、ストレスフルだろうな。。

 

明日から預かり保育です。

 

息子よ頑張れ。

 

 

 

実家2日目

実家2日目にしてもはや耐えられないかもしれない事案発生。

 

敷布団、腰痛い。

腰痛い腰痛い腰痛い!!!!

 

普段家で低反発?が上にあってその下にコイルがあるようなふっとい分厚いマットレスのベッドで寝てるから……敷布団こんな痛いと思わなかった。

 

体が痛くて起きてしまう。

 

でもね敷布団は良いんですよ。

 

なんてたって、子どもと寝てて子どもが寝相で落ちちゃう!ていう心配がないものね。

 

いくらでもコロコロくるくる回ってくださいな、て感じで。

 

そこは良い点なのだけど…。

 

あああ、腰が痛い。

 

実家2日目にしてもうおうち帰りたい。

 

ベッド恋しいのもあるけどとりあえず、旦那さんいないの、もう寂しい。

 

すぐそばに触れる手があって指があって、ギュって抱きついていい体があって、抱きついたら抱きしめてくれる腕があるのは、なんて幸せなことなんだろう。

 

薄っぺらくて硬い胸が恋しいです。

 

 

息子のふわふわぷにぷにの体を、抱きしめてみてそれはそれで素敵なんだけど。

 

うーん。

はあー。

 

切迫早産&絶対安静&自宅、だと、、どうしても時間を持て余すね。

上の子の面倒は見れないし。

 

本でも読もうかなDVDでも借りてみようかな。

でも全部息子に邪魔されるかな。

 

ほんとそういうことしたい、けど、半分はでもそんな気力ないなって感じ。

 

ウテメリンの副作用がひどすぎて。

 

頭痛、吐き気、体の日照り、動悸……具合がかなり悪い。

飲むと元気になる薬なら、頑張って飲むけど、飲むと具合が悪く薬なんて飲みたくない。。

 

しかし、お腹の子は心地よいみたい。

ウテメリンのむと胎動がすごく激しくなる。

 

今まで知らぬ知らぬお腹張ってて動けなかったのかも。

 

ごめんね。

2人目絶対安静

 

いま、31wじきに32w。
上の子は1歳5ヶ月。
保育園に入っておらず、今まで上の子の面倒を見ながらのマタニティ生活を送ってたけど。。

困ったことになった。

お腹の子は逆子で、そのせいもあってこんなにお腹が疲れやすい、張りやすいのかな、と思ってた。
また、暑くて外に出ていなかったので、体力なくなっちゃったのかなー…だったら体力つけなきゃ、と家の中で上の子の世話をしつつ、動き回る毎日。

もちろん疲れたら休んだりしてたけど。

 

 

今日の検診で子宮頸管が2.8センチで短いと言われてしまった。
1日3回のウテメリン
1週間後、また検査。。

NSTもした、けど。お腹の張りは特に見られず、赤ちゃんは元気。

でもでも、極力寝ているようにと言われてしまった。

お腹が苦しくなって、ふうーと息を大きく吐いてしまうような感じが張る感じ、だとは思う、、けど。

横になったら治ることが多く、そこまで危ないのか、あまりよくわかっていない、これが1番危うい気がする。

 

危険察知ができない。

 

 

上の子の世話は?どうしよう。
来週1週間は、実家にお世話になる。
でもそのあと、もし絶対安静ではなく、安静に、くらいになったら、どのくらい今まで通りに暮らして良いのか。

 

上の子は引き続き可能ならば預かり保育に入れるべき?

お風呂やご飯、着替え、オムツ替えなど、全部誰かに頼った方が良いの?

でも、夜遅くにならないと、下手したら夜中2時にならないと、主人は家に帰ってこないよ?

 

それとも、お腹が張ったら休み休みであれば、上の子の最低限のお世話もして良いの?

さすがに8〜9キロある子の抱っこは控えるべき?

2人目で絶対安静の場合。

 

どう乗り越えてるの、みんな。。

 

上の子と、お腹の子優先でとは思ってる、けど、両立の仕方がわからない。

 

 

実家から家に戻ったら、2階の寝室まで、子ども抱っこもダメだよね?階段を抱っこして歩くなんて。

 

リビングに布団を引くべき、そのためには布団一式買うべき、、

わたし今すごく腰痛いんだけど。

敷布団硬いと本当に無理。

 

考えられる案

 

保育園オッケーなら、

1
実家にずっといる、離乳食、私の食事、朝夜の子どもの世話、保育園送迎など全部解決、、ただし私母の負担がかなりある。

2
家で過ごす。朝は主人が息子を保育園に、帰りは私母に家まで送ってもらう。
→離乳食、お風呂入れなど結局わたしの負担はそんなに減らない?日中の子どもの世話はないからその分横になれる時間は長いけど…。
でもその合間に離乳食作ったり家事しそう。。
→離乳食のストックだけ主人母に週一で作りに来てもらう⁇
でもそれも、負担がかかる人が増えているだけな気もする…。

3
上の子を義実家に。
→離乳食のストック作りに来てもらうより上の子を向こうに連れてってしまったほうが、主人母は楽か?
でもずっと日中1歳児の世話を1人ではきついよなあ。。
義実家の近くに保育園なんてなさそうだし、車運転は主人母に不可能だし、そもそも今役員で忙しそうだし。

 

思いつくのをまとめた。。

でもまずは。
来週の検診。


ウテメリンの副作用がひどいよ。

なんだこれ。

 

激しい頭痛のインフルエンザで高熱で身体が火照りふわふわする➕動悸が止まらない、感じ。

 

ウテメリンなんて飲まない方がよっぽど私は元気だった気がする。

 

でもお腹の子のためだ。

 

お腹の子がもし今生まれてしまったら。

障害があったら。

 

私はずっと自分を殺したくなると思う。

お腹の子の罪滅ぼしの人生になる。

 

攻撃的な言葉

相手に嫌なことをされるのに耐えられないくせに相手を嫌な気持ちにさせるのにも耐えられない。

 

相手の人を傷つけたくないのに自分自身が不快な気持ちになったら途端に言葉の攻撃を発してしまう。

 

よく考えなくてもそんなの相手を傷つける言葉だとわかるのに、今の状態が嫌でたまらなくて一刻も早く不快な状況から脱したくて言葉が飛び出してしまう。

 

相手はわたしの言葉で嫌な気持ちになって言葉の攻撃をする。

 

受けた言葉の攻撃にまたわたしは更に不快な気持ちになって攻撃を重ねる。

 

積み重なってますます不快で不愉快な空気へと染めていく数々の攻撃的な言葉。

言葉の山山山。

 

それが崩れる時になってわたしはもうこの言葉に囲まれた状況に耐えきれずに吐きたくなる。

 

その頃には自分が不快な状況に陥ったのが嫌だったことよりも何よりも、あたり一面に転がっている、相手の人へと鋭く投げつけた自分の口から出た攻撃的な言葉の残姿にうろたえて泣き出している。

 

 

相手の人はとてもとても大事な人なのだ。

 

ずっと昔から大事な人だから遠慮もなにも無くなってしまったくらい、それほどいて当たり前で大切な人なのだ。

 

その人にわたしはなんてことをしてしまったのだろう。

 

役目を終え相手を傷つけ終わって無残に転がっている言葉の姿は散り積もって今にも風に吹かれて形をなくしてしまいそうな灰に似ている。

 

鋭さはもう無いけれど死んだ寂しい色をしていて、確かに証拠として残っている。

目を背け顔を覆いたくなる色と匂いと熱を持っている。

その灰の消し方がわからない。

 

灰の向こうにはわたしの大切な人がいる。

ついさっきわたしが傷つけた人。

 

わたしは、くるりと背を向けて灰を視界から消してその人を視界から消して自分がしてしまったことの、大きさを動悸を感じながら頭の中で再生する。

 

大事な人を不快な気持ちにさせてしまって思うように息ができないくらい。

どうしたら良いのかわからなくなる。

 

ただ思うのは。昔から変わらない。

 

わたしのことを誰も知らない場所へ行きたい。

誰も知らない場所ならわたしは死んでるみたいに生きていて許される気がする。

 

誰も知らない場所に行きたい。

 

この今の素敵な場所にいる資格はない。

 

そこは多分、夕焼けの公園のブランコ。思い浮かぶのはその風景で、わたしのことを誰も知らない場所の始まり場所、それは夕焼けの公園のブランコなのだ。

 

誰もいなくなってこれから紫になり暗くなる公園で、静かにブランコの軋む音だけが響いている場所。

 

そこで、わたしは、立ち漕ぎをして、疲れたら座ってこいで。

それも疲れたらブランコに座って、ぼんやりする。

そして十分に暗くなって公園のたった1つの街灯がポツリと明かりを灯したら、自分の影が完全に闇に溶ける方向へとわたしは歩き始めるんだ。