人の話を聞きながら、可能な限り自分の話を語り始めないようにしたい。
自分も思わずやりがちなときがある、と最近気が付いたのだけれど。
自分が、自分は、わたしは、と、人の話を聞いている時に、主語を自分にして、気が付けば自分語りをしているときがある。
あなたはどうだった?
あなたの時は、どのように感じた?
あなたならどう思う?
と、自分の意見を求められたのならば、いいのだ。
それならば、自分のことを聞かれたのだから、質問に答える形で、「わたしは……」と話し始めてよいと思う。
しかし、そうではないときに、主語を自分にして、語り始めるのは、結構、話を聞く側は不快な気持ちになるものだ。
要は、
「誰もあなたのことを聞いたわけではないんだけど」というやつである。
これを思ったのは、息子の幼稚園をどういう幼稚園(運動系がいいのか、お勉強系がいいのか、少人数に特化しているところにすべきか……などなど)にしようか悩んでいて、話の流れで主人に何気なく相談したときのこと。
主人は「僕はこういう幼稚園がいいと思う」と話し始めていたのだが、気が付けば、「僕が通った幼稚園は……」「僕の行ったところはこういうところで……」と、主人が通った幼稚園を語り始めていた。
ここで思ったのは、やっぱり、相談しといてあれだが、
<誰があなたの通った幼稚園について、詳細を話せと言ったんだ>
というやつである。(質問しといてそれはないだろ、という意見もあるかと思います。)
相談内容は息子にあう幼稚園はどういった幼稚園か、地理的にもどのあたりの幼稚園にすべきか、などということで、誰も、主人が通った幼稚園(そもそも市が違う)の話を聞いたわけでない。
だいたい、息子は主人ではない。
主人が楽しかった幼稚園の要素が息子にも楽しい要素としてあてはまるかといえば、そうでもないと思う。
途中からもう、主人の語る幼稚園の話は右から左で空へ飛んでって二度と頭の中に残っていないようなルートを通っていた。
その代り、頭の中にあったのは、幼稚園の話ですらなく、
人は自分のことを語りたくなりがち、ということである。
まあ、当たり前だ。だって、自分は自分で経験したことしか実際に経験したことがないんだから。
語ることができるものというのは、自分の経験、自分自身のことだ。
そして、往々にして、人は、他社から注目を得たいのがサガだから、どうしたって、
俺は! わたしは! と自分のことを語りがちになってしまう。
でも語られたほうから言うと、実は、
誰もあなたのことは聴いていないし、と思ってしまうし、
そもそも、あなたのことにそんなに興味があるわけではないし……。
となる。
忘れちゃいけないのは、
自分は自分が思っているよりも、人から興味を持たれているわけではない、ということなのだ。
いくら自分が一生懸命自分の人生を懸命に生きてきた、あのとき限りなく努力した、昔死ぬほど頑張った、という経験があって、それが自分の中で大切な誇りとなっていたとしても、その輝かしい誇りは自分からみたら光輝いて見えるだけで、他人から見たら(しかもその人が、自身に興味がない人だったら)、散り積もっている埃にしか見えないときだってあるのだ。
(まあちょっと誇張しすぎだし、わたしの場合は相手が主人だったから埃とまでは見えなかったけれど)
(でも相手が職場のどうでもよい上司とか、嫌いなお局様とかだったら、埃にしか見えないかもしれないよね。でもこれは聴くことを拒否することはできないから、やっぱり、語られている間中、右から左へ流してお空へぽ~い、頭の中は好きな曲のBGMでいっぱいとかになるかもしれない。)
自分の誇り、一生懸命生きてきた軌跡は、相手にとっては埃に見える。
ときもある。
忘れないようにしないとな、と思った。
そして何より、相手の話をたくさん聞いて、相手を気持ちよく語らせることができる、相手の話から自分も周りも実のある内容を引き出せるようになりたいな、と思うのである。
何より、子どもたちに何か聞かれたときに、自分の経験をスタンダードの成功例として語らないように気を付けたい。
わたしが生きてきた時代と今は違うし、なにより、子どもはわたしではない。
わたしが成功としたことは、子どもたちにとっては成功ではないかもしれないし、苦しむ選択になるかもしれない。
子どもたちが何を自分の成功とするか、正解とするか、それを得るための手助けができるように、一緒に悩んで、一緒に考えて、寄り添って、最終的には自分自身で何かをつかむことができるような、サポートがしたい。
……実際、難しいんだろうなあと思うし、わたしにできるのかよ、と思うけども。
でも理想をもって文字にしておくのは、何もしないでぼんやり子どもと付き添うより、断然良いと思ったので、書きました。まる。
おしまい。